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||||| 第三の現実

小崎:
港さんは『自然−まだ見ぬ記憶へ』という本をお出しになっていますが、この本がたいへんに示唆に富んでいます。とりわけ僕が感銘を受けたのが、エリアス・カネッティという思想家が提案した「20世紀の『現実』には3つあるんじゃないかというコンセプトです。ひとつは「増大する現実」。つまり科学や技術の進歩によって、我々の知見や知識が増えていく。次に「精密化する現実」。これは同じく科学技術の進歩によって、あたかも映像のレゾリューションがあがっていくかの如くに、現実そのものの細かさが、どんどん細密化する。それに加えて「第三の現実」というものがある。それは要するに、それだけ増大し、あるいは精密化した現実を前にして、我々が実際に相手取っている現実と言うのは、希望も、それから失望も、両方あわせ持っているということを指している。そういう社会に我々は今、生きているのではないかということを前提に、港さんはこの本をお書きになっているわけですよね。この認識は、僕がこの写真集を編集するにあたって、大変役立ったし、また心の励みになりました。 |
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港:
20世紀がどういう時代だったかということを捉えようとすると、それまでのリアリズムで捉えきれない部分がある。「双顔の未来」という言葉でカネッティは表していますが、ヤヌスのような顔ですよね、希望と絶望が一緒になった顔。それだけは今までのリアリズムでは捉えることができない。直接カネッティが念頭においていたのは、広島・長崎への原爆投下だったと思います。
科学技術が、人間にとっての幸福、例えば寿命を延ばしてくれるとか、あるいは今まで不治であると思われた病が治るようになったとか、数え上げればきりがないくらい、いろんな恩恵をもたらしてくれたわけです。その同じ技術や同じ力が今度はネガティブに働く。それが環境破壊であり、戦争であり、この本の大半を占める人間の不幸です。その「第三の現実」をいかに捉えたらいいかということ、いかに捉えるべきかというのがたぶん、僕らにとっての最大の課題であろうということですよね。 |
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||||| 「百年の愚行」の写真を見て

港:
「百年の愚行」を見ると大半は、写真家の名前が入っています。僕はまずこのことに、深い感銘を覚えます。その中には、直接、親交のある写真家もいまして、例えばラグー・ライという、この人はインド人でニューデリーに住んでいて、インドの哲学者のような風貌を持った人なんですけども、非常にいい写真をたくさん撮ってます。風景や人間を撮っている。この中では、ボパールのユニオンカーバイド社のガス事故で犠牲になった子供の写真、この写真をラグー・ライが撮っていたということを想うだけで僕は胸が締め付けられるんです。彼のような、どちらかというとインドの悠久の大地を撮ることをライフワークとしてる写真家が、こういう悲惨な現実を撮らざるを得ない。あるいは、クリス・スティール・パーキンスという写真家がいます。スティール・パーキンスが撮っている写真は、遺棄されたルワンダの子供です。クリス・スティール・パーキンス、僕が個人的に最も敬愛する写真家の一人です。ラグー・ライもそうなんですけれど。彼らがこういう写真を撮らざるを得ない、それを想うだけでやはり僕はちょっと、手が止まっちゃうぐらいなんです。他にも何人もいます。写真家にとっては大先輩にあたるブルース・デビッドソンとか、フェルディナンド・シアナとか、大御所の写真が並んでいますが、どれをとっても、生と死のギリギリのところに立って撮っている。そのことが持つ意味がこういう形で少しでも社会の中で議論されたら、それに勝るものはないんじゃないか。 |
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||||| なぜ古新聞を使ったか

小崎:
報道写真家の人たちっていうのは、文字通り命を張って、現場に赴いてこういった写真を撮ってきています。その写真を、新聞や雑誌等、メディアに発表するわけです。フォトジャーナリズムという世界ですね。フォトジャーナリズムには昨今、いろいろな批判もないわけではありません。つまり、写真が新たな現実を捏造しているとか、やらせも当然あるだろうとか。ただ、大多数の写真家はそんなことはしないわけで、良心的に、本当に体を張って、写真を撮って発表している。その写真家たちと、それからそれを発表している媒体に対して、敬意を示す方法はないだろうかという思いがあって、古新聞を使ったんです。ちなみに古新聞というのはまさしく大量生産・大量消費の時代のシンボルでもあって、同時にリサイクルのシンボルでもあります。 |
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港:
オリジナル複写版を見て、さっきから何度も「これ印刷ですよね?」って聞いちゃったんですけど、ものすごく新聞紙の紙の質感までが出ていて。一口に古新聞紙と言っても、国によって全然違うんですね。中国とアメリカでは明らかに違うし、そういった質感も出ていて、モノとしての手触りがものすごく面白いと思いますよ。確かにこういったイメージって言うのはどんなに苦労して撮っても、一度、二度新聞や雑誌に出て、そのまま一般社会ではやはり忘れられていく。一瞬ものすごくセンセーショナルな衝撃を与えるかもしれないけど、でもやはりテレビには、全然かなわないし。やはり撮った端、見た端から、忘れられていくと思うんですよね。ですから、そういった写真を一点一点、こういうふうに非常に丁寧に大切に扱って、書物の形で出すと言うのはすごく重要なことだと思うんです。誰もが手に取って、軽く開けるというかたちが今まであまりなかったと思うんです。本っていうのはゆっくり何度も一人で見れるわけで、そういうふうにして見ると、また違う写真の見方ができるんだなって。 |
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||||| 今後の展開

小崎:
これから我々としては、この写真集だけでとどめるつもりはさらさらありません。展覧会やウェブ上の展開など様々な形で、まず、こういった写真があるんだっていうことを世の中に知らしめていきたいと思っています。本当にヘビーで、中にはたいへん痛ましい、見る人によっては本当に気持ちが悪くなるような写真もあるわけですが、その現実に目を背けてはならないと思うんです。例えば現実に、こういったカメラマンたちは、現場に出向いて行って頑張ってるわけだし、例えば難民救済に手を貸している人々もいるわけです。
一方で、未来への希望と言うものも、何らかのかたちで考えていかなくちゃならない。しかもこれからは、それこそ「第三の現実」で言えば、例えばバイオテクノロジーの問題をどう考えたらいいかっていうことも重要です。『百年の愚行』にはクローン羊のドリーの写真も載せていますが、これも研究者に悪意はないかもしれない。むしろ、今後、人間の生活を救っていくために、クローン技術というものが役立つんではないかと考えて、研究を行なっている研究者が多いんじゃないかと思います。ただそうは思いながらも、わからないことがあまりにも多すぎて、それがまさに「第三の現実」ですよね。「第三の現実」の中に生きているということを、忘れずにいなければならない。なおかつ希望を捨てずに生きていくにはどうしたらいいかっていうことが、たぶん、今後僕たちが何かやっていく前に考えていかなければならないことだと思うんです。 |
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||||| 歴史の教科書に

港:
この本が、歴史の教科書として採用されたらいいんじゃないかと思いました。高校くらいの。これは一つの歴史ですよね20世紀の。歴史の参考書として使って授業ができるような先生、授業があれば。アメリカで、オーストラリアで、世界中であったらいいなあというふうに思います。やはり世界的に見て、教育の中で占める写真の位置っていうのはまだまだ、二次的なものなんです。テキスト中心で。でもこの本を見ると、そうじゃなくて、写真によってしか伝えられない現実っていうのがあるし、これを見て、今言ったようなバイオの問題にしても、戦争の問題にしても、議論ができたらいいと思うんです。寄せられているテキストの中で、レヴィ=ストロースが「人権の再定義」っていう、非常に挑発的な文章を書いてます。挑発的というか、考えさせられる「人権の再定義」という。この文章ひとつとっても、やはりここから社会的な議論ができればいいと思うし、それは教育の現場であっても全然構わないと思うんです。それがこういう本の一つの意味なんじゃないか。 |
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小崎:
教科書っていうことで言うと、これは多くの方が仰っていることですけども、歴史の授業を古代史からはじめるのではなくて、現代史から逆に遡っていく方がいいんじゃないかっていう議論がずっとありますよね。で、まさしくそういった思いが、半分ぐらいあってこういうものを作りました。ちなみに、この写真集に収録した100枚の写真のうち、半分以上が1980年代以降のものです。これはもちろんフォトジャーナリズム自体が、以前よりもまさしく増大し、精密化しているという現実を反映してもいるんでしょうが、一方で、地球温暖化や環境破壊は20世紀後半の問題ですよね。とりわけ80年代以降の問題が、かなり大きく育ちつつある。それを反映しているものだと思います。現代から過去に逆に振り返っていく、遡っていく、そういった作業ができれば、そしてこの本がその媒体になれればと思っています。 |
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